山下達郎

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本書内容のご紹介(冒頭部分) 

 「名工とは、一見どうでもいいようなところにも精一杯の意匠を凝らす」
中島誠之助

「心にはうごきながら、ことばにはいだしがたく、
胸にはおぼえながら、口には述べがたくて……」
藤原俊成

「人間の“言葉”の表現の尽きたところから音楽は始まる」
ワーグナー

「詩をどう受け止めるかは、読んだ人の自由なんです。必ずしも一足す一が二でなくったっていい。その方が作品たちも喜ぶと思う」
まど・みちお

「夜が最も暗いのは夜あけ前の一刻、だが、その深い闇があるので
人の世の朝の光は美しい」
大佛次郎

 

 


はじめに


人は、何故、その歌謡曲を耳にしたとき、強く引きつけられ、そして、魅了されてしまうのだろうか。また、その歌がヒット曲として、あるいは、名曲として、巷間に残ってゆくのだろうか。こうした問い自体が野暮といってもよいものとは重々承知の上で、あえて、こうした問いを発しなければ収まりがきかなくなってしまう、ある歌手(アーティスト)がいることを個人的に吐露しなければならない。その歌手とは、むしろ、作曲家・編曲家、と呼んだほうが適切であろう。もちろん、彼には、天才的な歌唱力、さらに、天賦の才とも言える高音域にまで達する声帯の強靭さ、また、アルプスの稜線を彷彿とさせるような稀有のファルセットなど、他の歌い手が真似できぬ技量と才能を持ち合わせていることは言うまでもない。それらに加えて驚くべきことには、他の作曲家たち(専門家やシンガーソングライター等)がまず生み出すことの思いも及ばぬ、「なんなんだ、これは?」と呟いてしまうような楽曲の“スタイル”、そして、他のアーティストのアルバムでは決して“目にできない”美しいコーラスとハーモニー、しかも、“繊細にして、透徹した彼自身の耳”に適った楽器の音色が、まるで“ポップスのオーケストラ”として、圧倒的な存在感のある彼の歌声を“指揮者”として、見えない津波のように、聴き手に迫ってくるのである。しかし、爽やかなのである、実に爽快なのである。“海辺に吹く微風”のように。しかも、飽きがこない。個人の年齢や時代の変化に比例して、たいていのアーティストのアルバムは聴かれなくなってしまう。そして、埃のかぶった状態、もしくは、セコハン店に行く羽目になるのが大方である。だが、彼のアルバムは、僕個人にとってはそうではない。そこがこのアーティストの魅力であり、秘められた謎なのである。この点こそが、彼のアルバムがスタンダードとして後世いつまでも残り続けてゆくと確信する所以であり、“ポップスの古典”、さらに、“ポップスの規矩”として、つまり、あらゆるアーティストの原点として顧みられる時期が必然であるとも信じることになった基盤でもある。

 



新曲が、リリースされた。その歌が、人々の心を捉えたとしよう。果たして、その歌を初めて聴いたとき、また、数回耳にしていったとき、いったいその歌のどこに惹きつけられてしまうのだろうか。それは、その歌の詩情なのか、それとも曲調なのか。その両者の渾然と一体化した楽曲にあるのか。このような問いを発することが、無意味という人もいるだろう。しかし、こうした疑問は、どんな聴き手も、自らの存在とその歌との関係を深く考えていったときに、必ずや突き当たって当然の命題といえるだろう。
ある女性に恋をしたとしよう。そのとき自分は、「彼女のどこに魅了されてしまったのだろうか」などということを、浮かれているその間は決して考えないものである。しばらくして、ほどほどに熱が冷めて、冷静になったとき、もしくは、別れる羽目になったとき、相手と自らの関係を深く考えてゆくようになるのではあるまいか。「俺はいったい彼女の容姿に魅かれたのか、いや、彼女の性格に惚れたのか、いやいや、彼女の才能だけを見ていたのでは。ひょっとして彼女の家柄だったりして」こうした自問は、彼女との愛情が深ければ深いほど、切迫したものになりがちである。もちろんさまざまな要素が融合して、その男に魅力的な存在となっていることは言うを待たない。
「人は、外見じゃなく、中身だよ」実に使い古されたせりふである。若者には、説教じみた格言として、大の大人にとっては、経験に裏打ちされた真実として、口から出てくる言葉ではある。前者は、顔や容姿に魅力を感じ、後者は、性格や考え(価値観)を重視していることを、しかも、人生経験を経ている者の視点で如実に表している言葉といえるだろう。実は、歌という存在にも、人で言うところの容貌と気質の二大要素に該当する<曲調と詩情>が、まるで、その女性自身を形成するかのように表裏一体化しているのではあるまいか。こうした切り口で歌というものを考察してゆくと、その歌と己自身ののっぴきならない関係が浮かび上がってくるのである。その関係の奥底にある“歌と人の現象学”という大仰な命題にいざなうアーティスト、それが山下達郎なのである。
これから、この山下達郎というアーティストが、この日本の音楽業界の中でどれほど異質で稀有な存在なのかを、主に、彼のアルバムと楽曲をテキストとして論じていきたいと思っている。それは、僕自身の経験、耳、そして、感性が主軸となっていることは言うに及ばない。なぜならば、その女性の存在がいかなるものであるのか、その女性に長年つき合って、変わらぬ愛情を保持している者のみが、彼女を語るだけの資格があるものと自惚れながら信じているからである。



絵画の世界で、名画というものは、果たしてどういう対象に付される栄誉の枕詞であるのだろうか。それは、一人の天才が、奇人が、怪物が、一人の作業の証として自己が死した後につけられるブランドである。この絵画という範疇における名画の定義の必要条件は、恐らく、その芸術家が死した後にのみ与えられる称号である。生前はめったに与えられるものではないはずだ。
それでは、映画における名画(名作とも言う)という場合はどうであろうか。これも絵画ほどではないにしろ、その監督なりが、老齢の域に達した頃に、その作品に付される称号であろう。
そして、文学における名作とは、どういう場合に言うのだろうか。あの大江健三郎でさえ生きている間は、彼の作品に対して名作というのは少々はばかられる気持ちになるのが一般の読者の認識ではないだろうか。村上春樹の作品もさらに同様と言える。文学というジャンルでは、その作家の小説などを、その人間の死後に、名作と呼ぶのであって、まず生前の段階では名作とは普通は言わないものである。
さて、音楽における名曲はどうであろうか。
クラシックにおける名曲という呼び名は、まず、大作とされるベートーベンの交響曲やモーツァルトのオペラ、また、ワグナーの歌劇に対しては当然用いられない。それは、“俊足のカール・ルイス”といっているようなものになるからである。しかし、クラシックでも、小品に対してはなされてはいるようである。
ジャズというジャンルの中で、近代に複製芸術というレコードが誕生したのと機を同じくするかのように、その楽曲(楽譜)と同レベルで演奏や歌唱を記録した名盤という概念が誕生した。ここに、クラシックにおける楽譜上の名曲という把握の規定が広がったといわねばならないだろう。それは、名指揮者であるフルトベングラーからカラヤンに至るまで、コンサートでは耳にできない名演奏というくくり方とも同一線上にあるものである。この地点で、芸術という世界に“名~”とつく存在が、一人の人間ではなく、複数の人間によって成立する存在へと変貌をとげたのである。
そもそも、名(絵)画にしろ、名(映)画にしろ、名作にしろ、はたまた、クラシックにおける名曲にしろ、その“名~”という称号をえる存在は、みな一人の人間によって創り出されてきたものなのである。特に、音楽が、近代に入り、クラシック、ジャズ、ロック、そしてポップスというような多様なジャンルの変遷を経て、複数の人間の共同作業により成立する文化、ないしは、芸術へと様相を変えていったのである。
とりわけ、ポップス(広義の意味の)という音楽ジャンルでは、作詞家・作曲家・編曲家・演奏・歌手などといったさまざまな才能の結集によって名曲が生み出されてきたという経緯を忘れないでいただきたい。
例えば、歌謡曲において、よくラジオのDJが、「これって、名曲ですよね」と、いとも簡単に口にしているのを耳にする時、どういう基準で“名曲”と言っているのか聞き質したくなってしまうのだ。歌謡曲ほど、“名~”という言葉が安売りされて、乱発されている領域も珍しい。多分、ミリオンセラーになったもの、超人気アイドルが歌ったもの、時代の世相や色を映し出しているもの、などなどであろう。つまり、テレビやラジオで話題になり、ある程度売れた曲とでも言ったらいいだろうか。それはある意味で大衆の心を捉えたとは言ってもいいのだが、そんなレベルで名曲と呼ばれているにすぎない。
美空ひばりの『悲しい酒』を名曲と呼ぶことであろう。しかし、その『悲しい酒』の楽譜に対して、それもクラシックの次元で名曲と大衆は呼んではいないはずである。しかし、その楽譜を作り上げた石本美由起と古賀政男を当然忘れてはいけないにしろ、美空ひばりたればこその名曲である。
森繁久弥の『知床旅情』を名曲として世の大衆が初めて認識したのは、加藤登紀子の『知床旅情』を耳にしたときである。
永六輔と中村八大の『上を向いて歩こう』を名曲たらしめているのは、その楽譜の存在が歌手坂本九以上に大きいといってもいいと思う。
江間章子と中田喜直の『夏の思い出』は、不特定多数の一般大衆が唱和する上での名曲である。この両者がいればこその名曲である。
何が言いたいんだと問われることだろう。つまり、世のポップスとされている名曲は、その歌手たればこその名曲とその楽譜たればこその名曲があるということにすぎない。もちろん、その両者による名曲もあるだろうし、その演奏によるものもあるだろう。一概にこうした名曲の裁断的定義は誤解を招く危険性を孕んでいることをあえて承知の上で言っているのだ。
ここで本題に入ることにしよう。こうしたポップスにおける複数の才能同士の結晶としての名曲とは次元の違う名曲と呼べる存在が日本にはあるということだ。それは、一人の人間が、作詞、作曲、編曲、演奏、歌唱などほとんどすべて自分独りで成し遂げてしまう音楽家がいるということである。それが山下達郎というミュージシャンである。それは、【山下達郎としての←上に点々】名曲であり、その名曲としての定義は、クラシックの“名楽譜プラス名演奏プラス名歌唱”という範疇に入るものなのだ。
例えば、松任谷由美の曲を名曲とすれば、それは“名楽譜プラス名歌唱”のものであり、名編曲・名演奏は松任谷正隆のものとなっているのだ。つまり、ユーミンは、スタイリストやヘアードレッサーとしてサポートしてくれる松任谷正隆と、一緒に活動することで、よりいっそう輝いているのである。極論を言わせてもらうならば、ダイヤの原石は、あくまで原石であり宝石とは呼べない。原石を研磨師が磨いて、宝石へと変貌させるのである。この研磨師が、アレンジャーであり、ある意味ではプロデューサーでもあるのだ。
絵画は、“対象とカンバスとの自己の眼と精神を交えた格闘”である。映画は、“独裁的な監督の脚本と自己のイメージ(映像)との苦悩苦闘”である。小説は、原稿用紙上での“構想(プロット)と自己のイマジネーションのせめぎ合い”である。そして、クラシック音楽というものは、五線譜上の、“ピアノと自己の音像との対論(ダイアローグ)”である。
これら芸術ジャンルの作品は、皆一人の自己と向きあう中から生まれ出てくるものである。つまり一人の人間によって生み出された名品であるということである。この観点に立ったとき、その名品はその人間の一人のまじりっ気のない、純粋な一人の才能の表れでもある。山下達郎の音楽には、これと同次元の純粋性、つまり、すべて山下達郎だといえる、谷川のせせらぎの清流の水のような純度100パーセントの山下達郎とさえ言ってもいいような魅力があるのだ。このポップスにおけるすべて一人作業の名曲というくくり方はこの邦楽界にあっては稀有なるものである。この希少性を軸にこの『ポップスの規矩 ~私見 歌謡曲論~』を読んでいただければ幸いである。

 

 

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